晴れた秋の日を秋晴れと称するならば、曇り空の秋の日は秋曇りなのだろうか。秋曇りのアンニュイな空の下、琉晴学園の生徒たちが学校指定の青いジャージに身を包み、グラウンドで散り散りになって体を動かしていた。
曇り空といえど油断ならないのが紫外線だ。少しでも浴びれば皮下に潜んだメラニン色素が暴れ出し、夏の間中日差しから逃れ続けてやっとのことで白く保っていた肌があっという間に浅黒くなってしまう。外でおこなう体育祭など無くなって仕舞えばいいのにと、顔や手、足の果てまでも日焼け止めを塗ったくって万全の状態で校舎の外へと繰り出した白和泉麻望は小さく舌打ちをした。そう、本日は体育祭の種目別練習のため、生徒達が朝からグラウンドに集まっていたのだ。
さて、グラウンドには学校指定の青いジャージ姿の生徒が群雄割拠していたが、黒羽迅の姿は容易に探し出すことができた。短距離走の練習をしている団体の中でも飛び抜けて速く、宛ら流れ星のように駆け抜ける男が彼だ。それに追従する降矢侑斗の姿も見える。彼は迅のそれには及ばずとも、諦めずに短距離走を極めており、迅とバトンパスの練習に励んでいた。
迅が旧友たちによって危険だらけの宇宙から引き戻され、無事エアロ・スミスの曲をバックに砂埃まみれになりながらも地球へと生還したその頃、麻望は別の宇宙で独り頭を悩ませていた。
数ヶ月という長い時間が経った今も、あの土砂降りの放課後のことが頭から離れないのだ。
麻望の第六感が『放課後、琉晴近郊に局所的な豪雨がもたらされる』と告げたにも関わらず、麻望は傘も持たずに出ていった。豪雨にでも槍にでも降られて仕舞えばいい、そしてもし心優しい男子生徒が通りかかり傘を差し出してくれたならそれに越したことはないと、彼女は半ばヤケクソな雨宿りを決行した。しかし運の悪いことに、黒羽迅が陸上部の佐倉聡子に告白されている場面に出くわしてしまったのだった。
『お前の気持ちを尊重してやれないのに黙って頷くなんて、できないよ。』
―――なんであんなやつの台詞がいつになっても頭から抜けないのよ!
告白を盗み聞きされていたなどつゆも知らない迅は麻望に折り畳み傘を押し付け、雨の煙の中へ飛び出していってしまった。奇しくも麻望が淡い期待を寄せていた『心優しい男子生徒』の役割は、黒羽迅が担ったのだった。
それからというもの、麻望は事あるごとに迅の背中を目で追ってしまうようになった。
―――ほんっとに最悪、バカなんじゃないの。
自分とは全く異なる他人に宛てられた台詞を意図せず反芻してしまいながら、宛らグラウンドの礫を奥歯ですり潰すような勢いで歯軋りした。
体育などクラス全体で運動するイベントは日頃の黒羽迅と同じ装いになることができる好機であると麻望は考えて…いない、というつもりで、実は考えている。現に迅と同じ色のジャージを見に纏う自分の姿を見、顔が緩みそうになっているのだった。自分でも湧いた頭だと呆れてしまう。最悪だ。
「麻望さん」
歯軋りを止めて省みれば、同じように体育祭の練習に参加しているエミリーの姿があった。精巧な作りの人形がクラシカルなドールハウスから飛び出してきたかのようだった。もっとも、製作者の服飾の知識に偏りがあるのか、なぜかジャージを着せられた人形だったが。
クラスメイトたちがエミリーの美しさを褒めそやすが、『すごい』とか『ヤバい』とか、彼らの陳腐で薄っぺらい語彙で表現できる範囲を超越した美しさであると、麻望は思っている。
「聞いてください」
小首を傾げながらエミリーが訴えるので、はいはい、と取り敢えず返事をしておく。
「土曜日のことです。海浜公園で迅君と降矢君、アラタカ高等学校のご友人が三人で大声を張り上げながら走っているのを見かけたのです」
麻望は率直に思った。この美少女、一体何が言いたいのだろう。どうにか察しようとはするが、彼女はいつも通りの冷たい無表情だったので必死の詮索など意味をなさないことだけが分かった。
「あ、そ。仲良しで良いわね」
よって、短くコメントするに至り、腕のストレッチに戻る―――
「……」
「……」
「いや、何か喋んなさいよ!それで?続きは」
長い沈黙に耐え切れず、麻望は捲し立てたが、
「ありません。事実を報告したまでです」
とだけ淡々と返すので、ああそう、としか返せなかった。
聡明なエミリーが理由もなく事実だけを報告するとは考えにくい。何の脈絡もなく情報を提示してきたからには、きっと何かしらの意図があるはずだ。今回はその意図が読みにくいというだけで。
「てかアンタ、なんで海浜公園なんて行ってたの。活動日でもないのに」
そもそも会話に答えやヒントが潜んでいることの方がおかしいのだ。麻望は純粋な疑問をぶつけることにした。
「そうなのです。実は活動日を一週間間違えてしまったのです」
「あら、珍しいこともあるのね」
本当に稀有なことだった。この機巧少女が自分の予定を誤って覚えていることなど、今までに一度も無かったからだ。一体どうしたのだろう。
「散歩になりましたし、良しとします」
「ふうん。ご苦労様」
そうして、再び少女と麻望の間に気まずい沈黙が流れた。
居心地の悪さに思わず目を逸らすと、迅が侑斗と翔太とハイタッチして飛んで跳ねているところが目に入った。たかが体育祭、それもまだ練習だというのにやけにご機嫌だ。それこそ休日に―――土曜日に何か良いことでもあったのだろうか。
「はあ」
ご機嫌な映像に、微かな溜め息がSEとして付け加えられた。麻望のものではなく、エミリーのものだ。エミリーは校庭の砂地に向かって小さく息を吐いていた。
「アンタも溜め息なんてつくのね」
「ええ。ハードが熱暴走しないための排気と思っていただければ」
「そ、それは…違うんじゃない?アンタ機械じゃないのよ」
「それもそうですね。では何故、私は排気をしなければならないのでしょう」
「いや…知らないけど…」
何の脈絡もなく土曜日の思い出を語る、活動日を間違える、溜め息をつくなど、エミリーの様子がおかしいのは明らかだった。検討もつかないが、何らかの理由で体育祭が嫌で仕方がないのだろうか。他にわけがあるとしたら、―――
「白和泉」
あの憎き留学生の仕業かも知れないと思い当たったのとほとんど時を同じくして、エドワードその人が目の前に現れた。もしやエミリーが本調子でないのはお前のせいなのか、と麻望は自分の顔に特大の不快感が滲み出ていくのを止めようともせず、何、と吐き捨てるように返事してやった。
「貴様、お嬢に溜め息をつかせたな。お嬢を退屈させるなど言語道断だぞ。黙って見ていたがこればかりは看過できん、去れ」
毅然とした態度で立ち退き勧告され、麻望は面食らった。自分ならば退屈させたりしないとでも言うのか。エドが振りかざした根拠のない自信に、鳥肌が立った。
「今までずっと見張ってたってこと!?キモ!ありえないんですけど」
「愛するお嬢の体調を案じることの何が悪いんだ!大体、お嬢が本調子でないのは貴様のせいだろうが!詫びろ!」
「ふざけないでよ、アタシだって調子狂ってんのよ!アンタがどうせ要らんこと言ったせいでしょ」
「な、僕のせいだと?今日はまだお嬢とお話ししていない。だからてっきり、貴様の仕業だと…」
「…え?」
「……?」
会話が、噛み合わなかった。こいつこそ全ての元凶だと考えなしに突っ込んでいったは良いものの、どうやら相手はこちらを全ての元凶だと思っていたらしい。お互いがお互いをエミリーの不調の原因だと考えている。今日何度目かも分からない気まずい沈黙の中、麻望は歯軋りした。麻望は根拠のない自信を振りかざす男以上に、まどろっこしい状況が苦手だった。
「あーもう、とにかく、事あるごとに飛んでこないで!あっち行きなさいよっ」
「何だと!?そんな要求が飲めるとでも、おい、叩くな!暴力に訴えるなど、野蛮人のやることだ!クソッ、煩いな、立ち去れば良いんだろう!覚えておけ」
ひたすらに背中を叩き続け、捨て台詞を吐かれながらも何とか悪霊を追い払った。何が覚えておけ、だ。こんないたいけな女子生徒に、屈強な男が一体何の仕返しをするというのだ。もし何かされようものなら、やはりあいつの正体は紳士などではない、相手が非力な女でも構わず暴力を振るう正真正銘の悪魔だと学年中に言いふらして回ってやろう。まず初めは迅に話して、味方になってもらって、―――
「あー、最悪!」
麻望の心持ちは、最悪だった。
- -
「はあ」
「溜め息だ」
指摘されて初めて気付いた。麻望は溜め息をついていた。
「ごめん。何でもないの」
「いやあ、何でもないわけはないでしょうよ」
目の前の中岡琳は、苦笑いで座っている。
今日の麻望は、A組の教室まで赴いて昼食をとっていた。日頃ならばD組の面々と過ごしているところだが、気分が乗らなかったのだ。棘を隠せずに敵を作ってしまうことの多い麻望の駆け込み寺は、中学時代からの同級生である琳のところと決まっていた。
道場破り、はたまた仇討ちと言わんばかりの勢いでA組の扉をどんと開け放った麻望を見るなり、イヤホンで周囲との接触を断っていた琳はわお、と間抜けな声を漏らした。麻望が大股に歩いて琳の机に辿り着くと、何が面白いのだろうか、琳はにやにやと笑いながらそれを待ち構えていた。
「何かあったのかな?」
琳が問うたが、
「別に」
麻望はそう答えるだけだった。
「あは!また、別にって言ったね。まあ座りなよ。ここ、出かけてて空いてるから」
琳は何故かご機嫌な様子で身を乗り出し、彼女の前の席の椅子の背もたれをとんとんと叩いて促したのだった。
「何でもないったら、何でもないの」
「はいはい。相変わらずD組はドタバタみたいで、楽しくていいねえ」
白くみずみずしい琳の肌が、カーテンから漏れる太陽光のように透き通って煌めいている。相も変わらず、花も恥じらうほどに容姿端麗な女性だ。麻望は常々思う、自分の周囲の女子はみな一様に美しいし、あまつさえ人間離れしている―――
「…良い匂いがする」
昼食の匂いの中に微かに、柑橘系の香りがする。麻望がすんすんと鼻を利かせながら溢すと、琳がおっ、と声を上げた。
「何だと思う?当ててみて」
ヒントはこれだよ、と真っ白な両の腕が眼前に差し出された。そうして殊更に白い、青く血管の透けた手首を見せてくるのだが、どういうことだろう。少なくともノーヒントで謎をかけてくるエミリーよりはマシだ。
「ほれほれ。ヒントは目の前だぞ〜」
「あ!」
麻望は思い立ち、その両の手首に顔をそっと近付けた。読みが当たったようで、仄かにコロンの香りがした。
「はあ〜」
良い匂いだ、と麻望は特大の溜め息を吐きながら項垂れた。ただでさえ美少女な琳が周囲に気付かれるか否かという瀬戸際の少量のコロンなど付けていたら、側に近寄った男ならイチコロなのではないか。いや、もうきっと一人殺されたのだ。だから彼女から良い香りがするのだ、一つ上のステップに進んだ女性の良い香りが。ああ、もうだめだ、やられた。麻望は項垂れた。
「…そう、琳、男が居るのね…」
「ほ?」
琳は間の抜けた声を上げた。なんだなんだと言わんばかりに項垂れた麻望の顔を覗き込んだが、ああ、と声を上げ、
「麻望、それは論理が飛躍してるよ」
と続けた。麻望が顔を上げると、琳は左右に手を振っていた。否定のポーズだ。
「良い匂いでしょ。それで退屈な授業を受けても、最悪な日差しを浴びても、気持ちが上向きになるの。それだけだよ、深い意味なんてないの。男なんていませんよ」
「あああ〜…」
麻望は再び項垂れた。仄かなコロンの香りと男の存在を結びつける自分の、愚かで通り一遍な思考にほとほと呆れてしまった。なんと単純で浅はかな思考なのだろう。やはり琳の方が一枚上手だった。
「安心して。麻望を置いて男なんかと付き合わないから」
「またそういうこと言って。悪ふざけはやめてよね」
「あはは」
良かった、まだ琳は自分と同じ階層に居たのだ。安堵するとともに、愛だ恋だと悩んで苦しんでいる自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。彼女のような余裕が欲しいと、麻望は溜め息をついた。
「あっ、二回目。もうこれは溜め息のわけを聞くしかないね」
そこまで問いただされてしまったなら、仕方がない。麻望は現在自分が置かれている状況を琳に伝えることにした。
「…というわけで、変なのよ」
「面白いことになってるねえ」
「他人事みたいに面白がって!琳の意地悪」
ぼんやりしていたと思えば打って変わって元気になった迅、いつものように無表情ではあるがコンディションが乱れているエミリー、事あるごとに突っかかってくるエドワード、そしてなぜか訳もなく鬱屈とした麻望…D組の面々の荒れた様子の又聞きで、部外者の琳はけらけらと笑っている。
「だって本当に面白いんだもん。ほんとに元気があって良いなあ。元気いっぱいな人が羨ましいよ」
琳だって元気だろうに何が羨ましいんだと、麻望は眉をひそめる。悪かったって、と琳は手をひらひら振って詫びた。
「ま、悪いことは言わないよ。そういうときはさ、俯瞰の立ち場に徹すると良いよ」
琳はきゅっと目を細めて微笑むと、ミネラルウォーターをそっと口に含む。ペットボトルの中の透明な液体の液面が少しだけ減って、再び机の上へと戻る。
「俯瞰の立ち場…?」
聞き慣れない単語に麻望は困惑したが、そうだよ、と琳は日向に姿を表した起きがけの爬虫類のようにのんびりと頷いた。
「荒れた波間みたいな状態は当事者になればなるほど辛いもんだよ。あんまり深追いしない方が良いかもね。だから、自分が此処にいないつもりでやり過ごすのが一番いいよ」
「……」
未だ落ち着かないミネラルウォーターの揺れて煌めく液面を見つめ、麻望は押し黙った。
―――自分は、此処にいないつもりで。
琳の言葉を噛み締めながら、目を伏せる。迅の中にも、エミリーの中にも、他の誰の中にも自分はいないというつもりで過ごす。誰とも心を共有せず、ただ集団を形成する熱源の一部として振る舞い、さも当事者であるというような顔で其処に存在する。何か呼びかけられても適当な二つ返事で済ませ、目の前の携帯端末を見つめて構う暇がないふりをする。他者と必要以上に関わるのを辞める。さすれば、琳の言う安寧が訪れるらしい。
しかし麻望には、どこか引っかかるものがあった。人付き合いが不器用な自分が天候観測隊で心を共有できているかと問われれば嘘になる。それでも、赤の他人という関係値ではないはずだ。地上すれすれにまで近付きつつあった心を天高くまで取っ払い、あくまで俯瞰せよ、無関心であれというのか。
「…アタシは、琳じゃないから、うまくできないかも」
麻望はゆっくりと、首を横に振った。
「…そっかあ。だとしたら麻望は、優しいんだなあ」
琳は心なしか声のトーンを落としながら目を伏せ、ははは、と机の上に向かって力無く笑った。
何故だろうか、このとき麻望は琳のことを、しばらく餌にありつけずにほっそりと痩せ細って落胆しているトカゲに似ていると思った。
「別に琳だって、優しくないわけじゃないでしょう」
今だってアタシの話を聞いてくれてるわけだし、と麻望は首を傾げるのだが、
「麻望がそう思ってくれるなら、そうなのかなあ」
ふふ、と再び脱力気味に微笑み、ミネラルウォーターを煽った。
この美しい少女の身体に、無色透明の水がしんしんと染み渡っている。
そのシルクのスカーフのように滑らかで透き通った光景を、麻望は何も口に出せぬままに見つめていることしかできなかった。
—
―――自分が此処にいないつもりでやり過ごすのが一番いいよ。
『此処にいないつもり』の麻望は、言葉を発さずにホームルームを終えた教室をぼんやり眺めていた。
翔太はこれまでの観測データを取りまとめているファイルケースを片手に楽しそうに活動計画を練っているし、迅と侑斗は短距離走のトレーニングメニューを考案しながら首を傾げているし、エドはこちらを訝しげに見ている。
「はあ」
そして麻望の側に立っているエミリーは、相変わらずハードの排気と称した小さな溜め息をついていた。
ああもう、と麻望は自分の見ている風景から目を逸らすように天井を仰ぎ見た。
この異常事態の少女を誰も気に留めない。気に留めていたとしても、他人のせいだと訝しんで睨んでいるだけ。密やかなSOSを出しているのに誰も気付かないどころか、手すら差し伸べない。察しが悪くて、気の遣えない、最低の同級生。なのに、いま自分が見て見ぬふりをしてしまったら、この少女はどうなる?霧深い迷いの森の中で電源を落とされずに煤けたロボットが排気を続けて孤独に彷徨っているさまを想起し、麻望は唇を噛んだ。
「…アンタ」
そうだ。麻望は思い出した。彼女が目を輝かせながら自分の手を取ったあの日の公園の木漏れ日の温かさを。
「はい」
一見無機質なこの少女にも頭を悩ませる事柄があり、心が躍るような瞬間があり、何より生命が通っている証である体温がある。不可思議に見えて、ふつうの人間なのだ。
「…放課後、活動サボるわよ」
それならばふつうである自分もまた、同じように彼女の手を取り、彼女の心を躍らせる手伝いをしても致し方ない。何故なら自分も彼女も同じ地表に並び立ち、他者と意思疎通を図ることで初めて活動できる、歴としたふつうの人間だからだ。
「……サボ?」
「…不参加ってこと。行くわよ!」
サボるという言葉の意味も解せずに首を傾げているエミリーに構わず、その手を取り、D組の外へと駆け出す。
―――ああ、アタシ、何をしてるのかしら。面倒なこと、まどろっこしいこと、全部全部嫌いなのにそれを見過ごすのも嫌いだから、進んで面倒なことに手を出しているんだわ。
秋に傾き始めたアンニュイな空が廊下の窓越しに流れていくのを横目に、麻望とエミリーは下駄箱の方へひた走った。
- -
「ゲームセンターに行く」
足早に琉晴学園の校門を後にすると、麻望は携帯端末の地図アプリであれこれ検索しながら歩き出した。「Game Center?」と首を傾げながら、エミリーが横についてゆく。ローファーで歩道のコンクリートをコツコツと軽快に蹴りながら、駅の方角へと歩みを進める。
「そ。ゲーセン。学園前駅の駅ビルに小さなゲームセンターがあるの。前に冬也が教えてくれた」
「トウヤ、というと、A組の六刻冬也さんのことですか」
「そ。サイテーの男よ」
サイテーのオトコ、と口にしながらエミリーが首を傾げるが、構わず麻望は歩き続ける。事情を知らないこの少女に縁が切れてしまった冬也との思い出をあれこれ話しても仕方がないので、麻望はすぐさま次の話題に繋げた。
「アタシはね、やきもきしてんのよ」
「ヤキモキ、難解な日本語です。恐れながら麻望さん、ヤキモキとは嫉妬の意でしたか」
「それはやきもち。やきもきっていうのは、ムカムカしてるってこと」
「左様でしたか」
では何故、とエミリーが問うた。目の前の女が突然腹が立っているなどと零したのだ、当然だろう。
「それが分かったら世話ないわよ。分からないから、あの場に居たくなかったの」
漠然とした苛立ちを捨て去るべく、とにかく抜け出したい一心でエミリーを巻き込んで逃避行を決め込んだわけだが、果たしてこの少女を連れ出して良かったものか。本当ならば気心知れた琳を誘う方が良いのだろうが、彼女が零した『当事者』という言葉が依然として引っかかったままだった。何故当事者で居ることをやめろなどと部外者の琳が持ちかけるのか、麻望は未だに分かりかねていた。
と、そこまで麻望は考えて、いっそ当事者を連れ出せば良いのではと思い当たった。
迅とエドはまずあり得ない。自分の漠然とした苛立ちの直接要因といっても過言ではないからだ。では、翔太はどうか。失礼ながら、何となく嫌なので同じ時を過ごしたくない。侑斗、同上。そうしてふるいにかけられた結果、残ったのはエミリーだけだった。
「分からないことがあると不安になる心地は分かります」
「人と比べて分かることばっかりのアンタが何言ってんのよ。はい、そこ右ね」
「so sorry」
才女に感覚を合わせられて同情されても全く嬉しくないが、これが彼女なりのコミュニケーションなのかもしれない。突っぱねてしまったが、もう少し素直に受け取っておけばよかった、と麻望は唇を噛んだ。
『コインを入れてねっ!』
やけにテンションの高い女声がご機嫌なガールズポップをバックにクレジットを要求している此処は、ゲームセンターの一角に設けられたプリクラの筐体の中だ。たかが写真をプリントするための機械でこれほどまでの大音量でポップミュージックを流す必要があるのかと麻望はしばしば疑問を抱いたものだが、いつからかこれは顧客が機械の中で正気を失い変顔をぶちかます手助けをするいわばプリクラ導入剤なのだと考えるようになった。日頃電車の中に四角く大人しく収まっている人間たちが、音楽が大音量で鳴り響くライブ会場では途端に押し合いへし合いの大乱闘を繰り広げてしまうというのだから、大きな音がもたらす高揚感というのは恐ろしい。同じくプリ機でもその高揚感に任せてレンズの前で開放的になり、アイドル顔負けの笑顔やウインクをしてしまうようになるというわけだ。
さて、そのように人の心を煽るだけ煽る箱の中、麻望は学生鞄をモニターの下の荷物置き場に放り込んでしまうと、鏡で自分の姿を確認し始める。
「麻望さん、こちらはどのようなゲームなのですか」
かたやエミリーは手に持った学生鞄を手放さないままに、簡易撮影スタジオのような筐体の様子を不思議そうに眺めていた。
「400円で写真を撮るゲーム」
「それは、ゲームなのでしょうか」
「ゲームじゃないかもね」
ふむ、とエミリーは筐体に備え付けられたモニターを覗き込んだ。鏡の代わりになっているモニターが、エミリーの丸い瞳を映し出す。青い瞳の中に無数の星が瞬いている。まるで銀河系をそっくりそのまま閉じ込めたような青が、液晶に満ちた。
「200円ある?」
パーマを当てた髪の具合を確認しながら、エミリーに問いかける。はい、と背後から返事が返ってきた。
「コインって書いてあるでしょ、そこに入れて。で、荷物は足元の…そう、そこに置いて」
「はい」
エミリーは屈んで学生鞄を荷物置き場に置くと、小さな小銭入れから100円硬貨を二枚取り出して投入した。ピロン、ピロン、と硬貨を受け付ける電子音が鳴り響く。
「良いわよ。アンタも鏡見る?」
「麻望さんがそう仰るのなら」
エミリーにモニターの前を譲ると、彼女はその前に立って、左を向き、右を向き、制服の皺を簡単に伸ばした。終わり、らしい。美しい人間は常に作画が一定で、本番前のお色直しも不要だとでもいうのか。ふん、と麻望は鼻を鳴らした。
「じゃ、残りのお金入れるから。すぐ始まるから見てなさいよ」
「はい」
エミリーがそうしたように、麻望も硬貨を二枚投入する。さきのように、軽快な電子音が鳴る―――
『pink magicへようこそ!』
『今日はどんなふうに撮影する?』
―――なにがピンクマジックよ、浮かれてるわね。こっちはブルーフィーリングなのよ。
麻望は再び、ふん、と鼻を鳴らした。
「アンタは勝手が分かんないだろうし、アタシが決めるわね」
お願いします、とエミリーが頷くので、麻望はいつも琳と臨む撮影と同じようなメニューを選択してゆく。少人数向けの、少しだけ顔が盛れるやつ。そして美肌モードを強化しすぎると英国産美少女のブロンドヘアーが肌と同化してしまう恐れがあるため、控えめに。
「流石です。慣れたものですね。たくさんこのゲームをなさったのですか」
「まあね」
「お友達と?」
「そんなとこー」
淡々と会話に応じていると、いつの間にやら一枚目の写真を撮影するところまで進んでいた。まずは二人でぎゅっと近付いて!と筐体に促された麻望は、エミリーに今だぞというように目配せをするのだが、
「私は、麻望さんのお友達でしょうか」
「は、え?」
麻望が弾かれたようにエミリーの方を省みたその時、パシャ、という軽快なシャッター音と共に眩いフラッシュが焚かれた。しまった、と画面を確認すると、無表情で立ち尽くした少女と彼女の方を向いて困惑に口をぽかんと開けた自分の姿が映っていた。筐体の画面がこんな感じ!などと自信ありげに撮影した写真を見せつけてくるが、参加者の誰一人としてレンズを見ていないというとんでもないミスショットだった。
「ちょっ、話は後!意外と撮影早いんだから!」
「は。申し訳ありません、麻望さん」
「謝罪も後!次来るわよ!ピース!」
パシャ。今度は、画面に唇を尖らせてぎこちないピースをかます二人の女子高生が映った。
--
「ひどい写真ね」
「申し訳ありません」
「なんで謝るのよ」
「麻望さんが酷いと仰ったので」
「あ、あー…違うの。今のは、酷いけど…味があって良いわねって意味」
「麻望さんのお言葉、難解です」
「悪かったわね」
ロケーションをフードコートに変え、麻望とエミリーは撮影したプリクラを眺めていた。プリ機とは便利なもので、撮影したショットの中から印刷する写真を選ぶことができるのだが、そこでエミリーが失敗してしまった写真を入れようと言い出した。こんな写真を入れてどうするのだと麻望は当然顔をしかめたが、
「麻望さんほどの手練れの方が失敗してしまった写真の方が、確率論的に価値が高いからです」
などと意味不明の答えが返ってきたため、ああ、この少女には最早何を言っても無駄だ、と麻望は諦めて何も考えずにプリントの候補に突っ込んでしまった。
「…で」
口をあんぐりと開けた間抜けな自分の写真を見遣りながら、
「アンタがアタシの友達かって話?」
と、筐体内での質問を取り上げた。するとどうしたことだろうか、エミリーは弾かれたように顔を上げるのだが、そこから目線を少し下に落とし、はい、と小さな返事を寄越した。
何だ、この不自然な間は。麻望のほうが仰天してしまった。
この少女は確かにスーパーコンピュータ並の脳を携えた天才だが、そのコンピュータが重くなるほどの強い負荷がかかっているように思われた。なにか後ろめたいことでもあるのだろうか。
そういえば今日エミリーは自分に何回謝罪しただろうかと、麻望は回想した。申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません…結構な回数、頭を下げられていたような。
ふと、思い当たった。彼女が麻望に対して後ろめたい事情を抱えているのではない。麻望の素直でないがゆえのぶっきらぼうな態度が、彼女を後ろめたくしているのだ。
麻望は唇を横に結び、眉間に寄せられるだけの皺を寄せた。
麻望と近付きつつある心の距離を、この少女は測りかねているのだ。だからこそ、触れようとしては刺々しい態度に怯え、図々しくも近付いて申し訳ありませんと頭を下げている。自分の態度が、この少女を傷つけている。
―――自分が此処にいないつもりでやり過ごすのが一番いいよ。
それじゃあ駄目なの、と麻望は昼頃の琳に首を振った。情景の中の琳は矢に打たれたような顔で驚いている。何故なら今まさにエミリーが触れようとしている以上、自分は既に『此処』にいて、到底やり過ごせる状態でないからだ。
自分は、『此処』にいる。
「……だと、思っ、てる……」
エミリーは、小首を傾げた。
「すみません、麻望さん。聞き取れませんでした」
何度目かも分からない少女の謝罪に、思わず麻望はフードコートの机を引っ叩いた。パァン、と大きな破裂音が辺りに鳴り響く。
「あー!謝るなっつーの!アタシは、アンタのこと友達だと思ってるわよ!だから今ここでこうやって喋ってんでしょ!文句ある!?」
ほとんど悲鳴に近い告白をかますと、エミリーは、いつもぱっちりと見開かれた瞳を更に大きく見開いた。瞳の中の宇宙に無数の星が瞬き、煌めく。その光の眩しさに、堪らず目を伏せてしまう。
やはり慣れないことはすべきでなかったかも、と琳のことを思ったが、脳内の琳は相変わらずあはは、ほんとに麻望は元気だね、と脱力しながら笑っているだけだった。
「……」
長い沈黙が流れた。自分が思い切って腹を割ったにも関わらず何をいつまでも黙っているんだ、不公平ではないか、とエミリーの口元のあたりまで目線を上げると、
「…っ、え」
夢か幻かと見紛うような光景だった。彼女は、印刷されたプリクラを眺めて、穏やかに微笑んでいたのだ。
笑っている?無表情のまま固まっているはずの少女の顔が、綻んでいる?
「あ…アンタ、…」
思わず、動揺の声が漏れてしまった。
「何でしょう、麻望さん」
驚きのあまりぱちぱちと瞬いた末に再び相見えたエミリーは、いつも通りの無表情だった。え、と戸惑いの声が漏れてしまった。何処からどう見ても、目は見開かれ、表情筋の固まった、無機質な少女がきょとんとしているだけだった。これではまるで、自分だけが夢を見ていたようではないか―――
「な、なんでもないわよ!友達なんだからそれ頂戴!」
居た堪れなさのあまり、やけになってエミリーの手元の紅茶を奪い取って一気に飲み干してしまう。ストレートだ!手加減なし、無糖の、とびきり苦いやつ。この苦味、絶対に夢ではない。確かに少女は笑った。曖昧だった友情の輪郭の片鱗を確かめ、安堵し、微笑んだ―――
「ああ、私のAfternoon teaが」
「ボンヤリしてるアンタが悪いのよッ」
「では、私もお言葉に甘えて頂戴させていただきますね」
「あ、ちょっと!あげるなんて言ってないでしょ!もー!」
エミリーに手元のバニラシェイクを奪い取られながら、麻望は訳も分からず叫んだ。