『迅へ
可愛い弟のために
お姉ちゃん駆けつけちゃいまーす
勇姿に期待してるよん♪
薫』
「最ィ悪…」
「どうしたの?」
迅がしかめ面で携帯端末の通知欄を睨んでいるところに翔太が通りかかったが、なんでもない、と繕って事なきを得た。
琉晴学園は本日、体育大会の日を迎えた。
優勝の組に豪華な景品があるわけでもなければ、最下位の組に罰ゲームがあるわけでもない。ゆえに、本気でぶつかり合う理由がない。そもそも運動を好まない生徒も多いだろうに、何故体育大会というイベントが存在しているのだろうと迅は常々思っていた。
迅は風を切って全力疾走することをこよなく愛していたが、陸上部に復帰したいま彼の短距離走欲は部活動の時間で充分に満たされており、運動嫌いの生徒たちを巻き込んでまで体育大会で勝ちに行かなければならないほど深刻な状態ではなかった―――
「ふふ、今日は迅の本気の走りに期待してるからねえ」
と、溶けるように微笑む翔太にぽんぽんと肩を叩かれた。これまでの学生生活において陸上部の関係者としか友好関係を結んでこなかった迅にとって、『陸上部以外の友人からの期待』は初めてだった。もしかすると、体育大会も悪いものじゃない、かも。
「迅君、お早うございます」
反射的にうわあと悲鳴を上げてしまった。翔太と別れた直後に、廊下でエミリーに出くわしてしまったのだ。
前言撤回。体育大会など余計な心労が増えるだけの最悪な行事だ。悲鳴を上げた勢いに任せておはようと手を振ったが、結果として「ぉおはよっ」という半分震えたような滑ったような情けない挨拶が口から飛び出ただけだった。
好きかどうかの境目などどうでもいいが、今好きだと思えるものを譲るつもりはない、などと颯人の前で大口を叩いてはみたものの、やはり好きかどうか分からない本人が突然現れるとどぎまぎしてしまう。この不可思議な少女と自分はどう接していくべきか決めかねたままだったが、曖昧なままにしておいたのはまずかったかもしれない。
「迅君は、短距離走とリレーに出場されるのですよね」
「あ、ああ、そんなとこ。怪我しない程度に頑張るよ」
頑張るよ、というところで軽く握り拳を作って胸の前で構えてみる。なにをおどけているのだろう。間を持たせるべく、エミリーは何の種目に出るのと問うてみた。
「私は、ナガナワと、障害物リレーの雑学クイズ部門に出場致します」
と返答を寄越した。
雑学クイズ部門?果たしてそんな競技があっただろうか。今朝方配布された体育大会のプログラムに目を通してみると、確かに障害物リレーの二人目の走者にはクイズを出題すると記されている。
「エミリーは物知りだし、D組の勝利も安泰だな」
「トコロガ・ドッコイ、そうはいかないのです」
エミリーは首を左右に振ると、迅の側に並び立ち、プログラムの端に印字された出場者のリストを指し示した。覗き込んでみると、少女の細い指がA組の走者の名前を指している。あまり見かけない名字だった。「この人がどうかしたの」と問うてみる。
「あら、忘れてしまったのですか。春にミスター杉本に教えていただいた、Computer Masterの六刻君です」
「ああ、冬也のことか!ムツキってこういう字で書くんだったな」
そこには、天候観測隊のウェブサイト立ち上げの助っ人として杉本が提示した六刻冬也の名前が記されていた。結局本人の顔を見ることは叶わず、代わりに彼の友人である碓井知生に協力してもらうことになったが―――エミリーにとって冬也は脅威たりえるのだろうか。
「迅君、六刻君は強敵です。先日ミスター杉本が私に仰いました。『青葛、六刻は機械オタクである以前に雑学マニアだから覚悟して挑めよ』と」
彼女が杉本の台詞の部分を、柔らかな声色の彼女にしてはドスの効いた声―――杉本を意識したであろう―――で読み上げたので、思わず吹き出してしまった。突然巻き起こったたった一人の観客の爆笑に、まあ、とエミリーが驚く。
「なんと、笑っていただけました。ミスター杉本のimmitation 、練習した甲斐があったというものです」
「嘘だろ、練習したのかよ!その台詞のためだけに?」
物真似ですら突飛なのに、突飛な物真似を練習していたらしい。迅は腹を抱えてひいひい笑った。だって、そんなの、あまりにもエミリーらしくないからだ。
「ええ、そうです」
らしくないエミリーは淡々とした口調でこくりと頷いて、
「迅君に笑っていただきたく」
と、迅をじっと見つめながら答えた。
思わず、迅は笑い声を封じ込めてしまった。エミリーの瞳があまりにも真っ直ぐだったからだ。練習を重ねられた渾身のジョークなど軽く飛んでしまうほどのひたむきな青い光が、迅に一直線に向けられている―――
気付けば、迅は大気圏外にいた。どこまでも広がる漆黒の宇宙空間を背に、まるで月面から見た地球のように美しく透き通った真っ青な双眸が、宇宙の風に吹かれながら迅をじっと見つめていた。こんな風に少女の美しい青を真っ直ぐに網膜に取り入れるのは、本当に久しぶりのことだった。
ああ、そうか、と迅は思い当たった。
自分は今、月面にいるのだ。だから今生きている星の色が青だと分かる。自分の色が青いと分かる。己の青さの何たるかを、すっかり忘れていた。
しかし青い惑星は、上に乗せた巨万の生命すべての行く末を案じるように、宇宙の風の中で微かに震えていた。
「エミリー、」
名前を呼ぶと、エミリーは唇をきゅっと結んだ。心なしか、小さな肩が震えているような気がする。
―――一体、何を案ずることがあるんだろう。心配要らない、独りじゃない。だって今はもう俺がいるじゃないか。あの日エミリーが手を取ってくれたから、だから俺は走っているし、エミリーだってもう灰色じゃなくなった。俺たちは青く瞬いている。そうじゃないのか?
―――いや、
迅は、宇宙に漂いながら首を振った。
―――エミリーの心を置き去りにしてしまったのは、俺だ。俺が自分の気持ちと向き合わなかったから、曖昧なままぎこちない笑顔で躱し続けたから、エミリーを独りにした。
「俺、」
笑えてなかったかな、と何処かで吐いた台詞を口走る前に、懐かしい初夏の潮の香りが鼻に抜けていった―――
「やるなら今日しかねえって」
「マジでやんのかよ、お前最低だな」
記憶の中の潮騒に、大きなトラックの連隊が通りかかったときのように地鳴りと澱んだ排ガスが混じった。D組の男子生徒が何やら下品に捲し立てながら、迅とエミリーの横を大股に通り過ぎていったのだ。
はっと顔を上げると、月面も地球も何処へやら、迅とエミリーは琉晴学園の廊下に立っていた。
「…何ごとでしょうか?」
エミリーが小声で零しながら首を傾げた。さあ、と迅も同調して首を傾げる。『最低だ』と称されるだけのあまり喜ばしくないことを仕掛けるようだが、こんな行事の日に何を企てているのやら。
ああ、とエミリーが声を上げて、
「成る程、そろそろグラウンドに集合する時間なのですね。私たちも向かいましょう」
と促した。
「そうだな」
迅は頷いて、エミリーの小さな歩幅に合わせながらゆっくりと廊下を歩き始めた。
しばらくエミリーの横にはエドが居座っていたので、肩を並べて歩くのは久しぶりだった。ゆえに彼女のペースなどすっかり忘れてしまったが、とてもゆっくりに感じた。まるで時が進むのを拒むような速度だと思った。
「迅君」
エミリーは進行方向に向かって名前を呼んだ。
「うん」
同じく進行方向に向かって、淀みのない返事がこぼれる。エミリーとのやりとりって、こんな感じだったな。
「短距離走、応援しています。迅君の記録を考慮すれば勝利は明らかでしょうが、それでも祈っています。頑張ってくださいね」
「ああ、そんな風に思ってくれてありがとう。絶対負けないよ」
「頼もしいです」
エミリーは真っ直ぐに信頼を伝えてくれる。自分の気持ちを捻じ曲げず、ありのままを伝えてくれる。だから迅も自分に正直でいられるし、自分の気持ちに素直でいることを恥じらわずにいられる。
―――エミリーの、そういう真っ直ぐなところが好きなんだ。
- -
「迅、さっきから無視してるんだろーけど聞こえてるの分かってるからね!手抜いたらお母さんに言いつけるから!絶対負けんな」
勘弁してくれよと、短距離走のレーンに立った迅は思わず天を仰ぎ見た。
なんと薫はよりによってスタート位置の真横に駆けつけてきて、大袈裟なデジタルカメラで迅の姿を撮影しながら声を張り上げていたのだった。
「あれ誰?もしかして黒羽の彼女?」
「ウソ、黒羽くんって彼女いたの?なんかショック〜」
「お母さんに言いつける、ってことはお姉さんじゃないの?」
「可愛いな」
「保護者枠でお姉ちゃん来てるの珍しいねー」
勝手なもので、同級生たちが身も蓋もない話をしている。なにが彼女だ。あんな煩い女が彼女なんてまっぴらごめんだ。
姉である薫のことは家族としては嫌いではなかったが、周囲の状況を顧みず己の目的に一本気すぎるところだけは唯一勘弁ならないと思っていた。よくもまあ名前も声も知らない人間の群れの中で声を張り上げて親族の応援ができるものだと、迅は呆れながらシューズの爪先を地面にトントンとぶつけた。恥ずかしくて仕方がない。まさか、クラス対抗リレーでもこの調子で応援を寄越すつもりじゃないだろうな。
顰め面のまま群衆を見やると、大勢集まった生徒たちの中にエミリーがいた。細い身体を左右からぎゅうぎゅうに押しやられながらも、迅の方を見守っていた。潰されてしまわないか心配だ。
「次の走者の方は準備してくださーい」
体育祭の実行委員に誘導されてスタートラインに立つと、群衆から歓声が起こった。
「黒羽の走り見たかったんだ」
「まばたき厳禁だぜ、すぐゴールするから」
「黒羽!黒羽!」
あれよあれよという間に、レーン横は大きな黒羽コールに包まれた。やけに短距離走のレーンが賑わっていたが、彼らは迅の走りを一目見ようと押しかけてきていたらしかった。普段静かに暮らしている自分がまさかここまで注目を浴びているとは思わず、記録会のそれとも異なる異様な雰囲気に、迅は居た堪れない気持ちになった。しかしまあ、保持している記録が記録なので、嫌でも話題にはなるか。
そんなことよりも、あんな押し合い圧し合いに巻き込まれたエミリーは無事だろうかと気が気でなかった。最初にエミリーを見つけたあたりを目で追ったが、見当たらなかった。
「位置について」
もうスタートの時間らしい。迅は足首を軽く回すと、スタートの姿勢を取る。両手の指先をスタートラインに合わせ、右足を前に、左足を後ろに。このクラウチングスタートの基本的な所作ひとつで、群衆が沸いた。嘘だろ。
「いけー、迅!」
沸き立つ群衆の中から姉の声援が聞こえる。分かってるよ。分かったから静かにしてくれ。
「よーい」
ぐっ、と上体を起こすと、静寂が訪れた。
―――ああ、静かだ。
無論、喧騒が止んだわけではない。スタートの合図に集中するあまり、意識にのぼらなくなってしまったのだ。
呼吸を重ねるごとに喧騒は徐々に遠ざかり、遂には自分の心音しか聞こえなくなった。スタートラインに立つと、いつもこうだ。
迅は、走るのが好きだった。
それはもう、周りも見えなくなるほどに。
だがこの場所に再び立てたのは、
「どん!」
―――紛れもなく、エミリーのお陰だ。
地面を蹴って飛び出した途端、意識が真っ青に煌めいた。
気が遠くなるほど長い練習時間を重ねる割に、本番はたった数秒間の煌めきでしかない。それでも、そのたった数秒の青い時間を、黒羽迅は愛していた。何よりも青くて、どこまでも青くて、綺麗だからだ。
青い、青い、ひたすらに青い流れの中を、ゴールに向かって一直線に駆け抜けてゆく。茹だる風の輪郭に乗って畝る青を、切り裂いてゆく。
ふと、迅の進行方向と逆向きに、金色の線がすーっと横に走っていくのが見えた。流れ星みたいだ。
―――あれは分かる。エミリーだ。見ててくれたんだ。
「一着、黒羽!」
声高に宣言されたゴールの合図と、呼応するように響いたわあっという歓声で、ふっと我に返った。
オーバーランののちに顧みれば、大勢の群衆と、群衆に飲まれそうになっているエミリーの姿が目に入った。
もとより遠く離れた存在である迅などこの日限りのエンタメでしかないのだろう、迅を目当てに集まった学生たちは、手元の携帯端末の動画の様子を気にしながら一気に散開していった。すごかったね、面白かったね、あとでSNSに上げちゃおと、一過性の娯楽を消費しながら奔流が進んでいく。
しかしその大きな大きな流れの中、折れてしまわないようにしんと佇む細い枝のように、エミリーが真っ直ぐに立って此方を見ていた。
胸の奥がじーんとむず痒いような心地に任せて手を振ると、エミリーが小さく手を振り返してきた。
- -
昼食の休憩が終わればいよいよ体育大会も大詰めで、クラス対抗リレーの時間が訪れる。
迅は色々な思惑がトラック上で混ぜこぜになるこの時間が少し苦手だった。普段は走ることを好んでいる人間たちが集まって身体を動かしているだけの場所なのだが、体育大会の、特にクラス対抗リレーの時間帯は、勝利への固執や活躍してほしいという純粋な願いや祈りとは少し違う形容しがたい気持ちが混ざっているような気がしていた。形容できないのも無理はない。迅が抱いたことのない気持ちの類だからだ。
「よっしゃあ!いよいよ迅にバトンパスだ、がんばるぞ」
侑斗がその場でトントンと足踏みをしながら張り切っている。そういえば、迅にリレーでバトンを渡すのは俺の役目だ、などといつか豪語していた。ふざけているのかと思っていたが、どうやら本気だったらしい。
「頼んだぜ、侑斗」
はしゃいでいる侑斗の肩を叩くと、
「おう、迅もな」
と、満面の笑みが返ってきた。侑斗は問題なさそうだ。
迅は、自分や侑斗のように走ることを楽しみにしている人間の高揚感の傍らで漂う嫌悪感にも気付いていた。
決してやる気のない人が気に入らないわけではない。走ることや運動が嫌いだったら、リレーなんて見せしめのようで苦痛だろう。勉強が嫌いな迅が授業を苦痛に感じているのと同じだ。みんなそれぞれ、好きなものや嫌いなものがあって当然だ。
しかし、今年は嫌悪感とも違う淀んだ重苦しい雰囲気がある。妙な胸騒ぎがしてしまう。一体何だろう。
「勝つぞー」
D組の面々は円陣を組んで、各々のやる気の所在はともかく、「おー」と高らかに叫んだ。
こういうのは嫌いじゃないんだけど、と迅は首を傾げる。
クラス対抗リレーは男子の部・女子の部に分かれておこなわれる。トラック半周を走り、バトンを繋ぎながらゴールを目指す競技形態となっている。
迅はというと、希望したり拒否する間もなくアンカーを託された。まず黒羽くんはアンカーで、と、勝手にアンカーのところに名前を書かれたところから走順決めが始まったからだ。直後にアンカー前は俺!と侑斗が大声で宣言して、あとは50メートル走のタイムが真ん中の走順になるほど遅くなるように、機械的に―――とは言いつつも、微調整を入れながら―――メンバーが割り当てられた。
これまで常にアンカーに配置されてきたせいで走順を意識する癖が抜けていたことに気付いたのは、自分の前にエドワードが並んでいるのを見た時だ。どうやら侑斗は、エドから受け取ったバトンを迅に託すらしかった。
なんで貴様の前に立たなきゃならんのだと言わんばかりに、エドは背後の迅を省みて舌打ちをかました。そりゃあお前の足が速いからであって俺のせいじゃないだろ、と、迅は肩をすくめた。
「止しなさい、エドワード」
聞きつけたのだろう、女子側の待機列のエミリーが、エドを振り返って何やら英語で呼びかけた。ぐう、とエドが唸っているあたり、窘められたのだろう。
斯くして、男子のクラス対抗リレーのスタートは切られた。
意外だったのは翔太の走りだ。日頃は窓辺で陽の光を浴びてのんびりしている彼のスプリントは予想以上に速かった。腕の振りもいいが、何より脚の上げ方がかなりよかった。赤坂速くね!?なんで!?と、待機列の生徒がざわついている。
翔太は半周の間に他クラスの生徒を1人抜き去り、スムーズにバトンを渡した。
―――あ、そうか、マウンテンバイクだ。それに元々、翔太は運動神経が良い。
温和な非運動部の彼が星を釣るために上り坂に向かってペダルを漕いでいることも、何故かバドミントンが上手いことも、クラスの人間は誰も知らない。
額の汗を拭いながら、走り終えた翔太が隊列の後ろに加わった。
「素晴らしいです、赤坂君。流石の走りでした」
「速くてキモかった」
男子の部より先におこなわれた女子の部で既に走り終えたエミリーと麻望が、翔太を労う。もっとも、麻望のそれは労いには程遠かったが。
「ありがとう、エミリー。白和泉さんは口の聞き方を考えたほうがいい」
むろん翔太が黙っているはずもなく、しっかりと反撃されていた。
「六刻くんが練習に参加しないからですよ」
「ミス一発で鬼の首取ったように騒ぎやがって何だ?てめーの足は遅えくせに口だけは達者だな委員長サン」
「何ですって」
ふと見遣れば、A組の待機列で男女が罵り合っていた。A組の男子生徒がバトンを取り落としたようだが、リレーの練習に参加しなかったことを女子に詰められているようだった。周囲にまあまあと宥められている。
ああ、こういう雰囲気だ、と迅は思い当たった。不穏を通り越して険悪で、胸の中がじくじくするような雰囲気。互いに混じり合わず、認め合わず、それどころか悪意をも持ち合わせているような、ぴりぴりとした人間同士の関係値。エドワードがやってきた直後にクラス中で巻き起こった悪口合戦の折にも感じた。
たとえ自分が無関係だったとしても、人間同士の不和が放つプレッシャーが迅は苦手だった。あの男女のように、自分の気持ちに任せて少しでも明るみに出せるならまだいい方だ。問題なのは、明るみに出ずに燻っている悪意で―――
『A組のバトンパスミスにより、D組が首位に浮上!』
放送部の実況で迅は我に帰る。どうやらD組はA組に差をつけて首位に躍り出たらしい。このままいけばアンカー同士のひりつく勝負はしなくて済みそうだと、迅は息をついた。
徐々に迅の順が近づいてきている。リレーが終盤に向かい始めるにつれ、琉晴のグラウンドのボルテージは増していき、次第に歓声が大きくなってゆく。
沸き立つ歓声に押し上げられるように、迅の眼前のエドが立ち上がった。どうやら前の走者のスタートが近づいているらしい。エドは座っている迅に肩越しに一瞥くれると、ふん、と鼻を鳴らしてライン上に立った。なんだよ、その睨みは。
『D組が一位、後ろから四人が追いかける構図になった!』
放送部が実況するとおり、D組の生徒を先頭として、身体一つぶん遅れて走者の集団がもつれ合いながら近づいてきた。バトンパスで接触しないといいけど、と迅は固唾を飲んで見守る―――
「あ」
コーナリングを始めたD組の走者を目にして、思わず迅は声を漏らした。今朝がた廊下ですれ違った、『最低』な何かを企てている生徒だった。嫌な予感がする。
まさか、とエミリーのことを振り返ると、彼女は僅かに口を開き、丸い瞳を更に丸く見開いた。
「エド、」
単なる予感だ。何の根拠もないし、何も起きていない。しかし、根拠のない寒気に任せて、思わず名前を呼んでいた。
前の走者は既にバトンパスゾーンに差し掛かっており、エドは駆け出していく。刹那、僅かにエドと視線がかち合った。何があった、と言わんばかりの怪訝な表情のエドが、スローモーションのように遠ざかっていく―――
『さあ最終盤に差し掛かり混戦気味のバトンパス、どうなるか!?』
放送部が煽る。ほとんど横並びになりながら走者たちが雪崩れ込んできた。エドの背丈は大きいため背中を捉えることは容易だったが、様子がよく見えない―――
次の瞬間、会場が一斉に大きなどよめきに包まれた。
「きゃっ」
珍しく、麻望が大きな悲鳴を上げた。
あんなに大きなエドの背中が、ふっと消えたのだ。
「エド!」
何処へ消えたのかと迅が身を乗り出すと、彼の身体はグラウンドの砂地に埃まみれで沈んでいた。やはり迅の懸念したとおり、バトンパスの接触で転倒したらしかった。
砂だらけのエドは苦悶の表情を浮かべながらもなんとか立ち上がり、走り始めた。膝を派手に擦りむいており、察するに受け身を取る間もなく転倒したようだ。彼の卓越した運動神経をもってしても避けられなかった怪我らしい。
―――しかし、どうして?
いくら横並び気味の集団だったとはいえ、D組は間違いなく身体一つ抜けた首位通過だった。それに、陸上競技であれば選手が一人転倒すれば不幸にも誰かしらが巻き添えになってしまったりするものだが、D組を除いた四人の走者たちはリズムこそ狂えど転倒せずに駆け抜けていった。避けるだけの余裕があったということだ。
「ふふっ」
隊列の中で小さく吹き出す男子生徒の声。省みれば、今朝すれ違った男子生徒の集団の一人が、走者の方を見ながら笑いを堪えていた。走者は眉と口の端を吊り上げながら、何かおかしなことでもあったかと言わんばかりにわざとらしく男子生徒と目配せし合っている。
「は、…」
迅は、思わず口から声が漏れるのを止められなかった。
頭に血がのぼっていくのが分かる。視界がチカチカして、目眩がする。込み上げた怒りで、息が、止まった。胸が詰まるほどに憤るのは、生まれて初めてかもしれない。
―――あの野郎、わざと、転倒させたな?
彼が起き上がるまでの数秒の間に差は開いてしまったが、それでもまだ絶望的な差ではない。
「走れ!」
弾かれたように立ち上がった迅は、これまでの競技人生でも出したことのない大声を上げた。
「走れ、エド!侑斗に繋げ!」
胸が張り裂けるような思いで、歓声の中で届くわけもないのに、喉が枯れるほどの大きな声で叫んだ。
そうしたら。
そうしたら、俺が。
俺がエドの代わりに、あの最低な奴らの鼻っ柱を折ってやる。